大晦日
大晦日の夜、ぼくらは食事をしに街へ出た。
待ち合わせ場所で会い、お店を探す。
大晦日ということもあり、年を越せる店は限られていた。
街を一通り回ったあと、ぼくらはお店に入った。
そのお店は、特別素敵なわけではなかったが、ぼくらの目的である、お酒を飲みながら、遅くまで居られるという条件を満たすお店の中では、ちょうどよいところであった。
適当に、お互いが好きな料理を頼んだ。
お酒も、頼んだ。
その日、ぼくらは、二人で初めてお酒を飲んだ。
お互い、お酒は普段あまり飲まないということもあって、ペースはかなり遅かった。
料理とお酒を堪能しながら、他愛もない会話をした。
いまっとなっては、どんな会話をしていたのか、あまり覚えていない。
だが、楽しかった。
ぼくはあの時間が楽しかった。
あの時間に僕らがどんな会話をして、どんな料理、お酒を堪能したのか思い出せなくなった今でも、たしかに、あの時間が幸せであったことを覚えている。
最近のツイッター、フェイスブック、インスタグラムなどのSNSは、
「〇〇の〇〇を食べた」
「△△の△△に行った」
「☓☓で☓☓をした」
などといった、
モノ、場所、料理、空間を良いと感じさせるための投稿、さらには、良い投稿をするための、モノ、場所、料理、空間を選び、それ中心の生活をする人が増えた。
ぼくは、自分の楽しさ、幸せすべてを言葉や写真で伝えることが出来ない。
それは、ぼくの頭が悪いからではない。
ぼくらの幸せを、文章や写真だけで、表現することは、出来ない。
なにを使っても、ぼくら以外の存在に、この気持ちを伝えることは出来ないだろう。
表現できてしまうのであれば、その文章や写真を見たひと全員が、その場に居合わすこともなく、その場で僕らが感じた幸せを感じる事ができるということである。
僕らの、あるいは僕ら以外の人たちの幸せは、文章や写真にまとまるような、単純なものではない。
1年後、僕らがその時何をしていたのか、思い出せないようなことでも、その時感じた幸せを、また思い出すことが出来るのは、何故か。
ぼくらがあの時幸せだと感じたのは、
料理が美味しかったからではなく、
お酒を飲むことが出来たからでもなく、
会話の中で、今後の人生を変える話が出来たからでもなく、
好きな人と会って、好きな人と料理やお酒を堪能し、会話が出来たからである。
海外旅行や、高級なレストランで食事をしたりするときに感じる幸せとは違う、
僕ら二人がともに存在し、作り上げることで、初めて成り立つ幸せを、ぼくはこれからも彼女と作っていく。